昔、石田純一が不倫をとがめられたときに「不倫は文化」と発言して、袋叩きにあいました。
社会通念的にも倫理的にも許されないことをして、おまえは何をいっているんだという批判ですね。
自分のやっていることを正当化するな的な。それこそ、最近のゲスきわとベッキーみたいなものです。
ところが、ばらばらになっている点と点を結びつけると、あの発言は意外と重要なことが分かってきます。
日本ほどセックスがあふれている国はないわけです。街中にセックスするためだけのホテルが点々とあり、田舎でも車で行けるところにぽちぽちあります。
アメリカにはあんなものありませんからね。せいぜい安いモーテルですが、別にあれはセックスのためのホテルではありません。
AVの企画の種類では、圧倒的に世界一ですし、幼女から、アブノーマルセックスまでアニメ、漫画とそのコンテンツ量は計り知れません。
性産業はほかの国とそれほど差もありませんが、先進国での貞操観念の低さは群を抜いています。
この調査が2004年だからどうだというわけでなく、妾、夜這いと英語にはない表現で行われるセックスがあるわけです。
多少の合意の上で正式なパートナー以外とセックスする習慣があり、それが形を変えて脈々と続いていると考えないと欧米の文化が入っただけの理由では、欧米の貞操観念の高さとのギャップを説明しきれません。
これは食料が海の幸山の幸と十分取れるようになってくると、今度は男たちが女の取り合いを始めるわけですが、人ひとりの能力の差はたかがしれているので、一人の絶対君主が総取りとはなりません。
大なり小なりフラクタルのように似たような構造、人間関係が上から下までできるのです。
つまり、君主が妾を20人取れば、幹部は5人、最下層であっても、頭のいいイケメンはひものようになって数人の女をはべらせるわけです。
それが浮世絵なりなんなりと、文化となってつながっていきます。
祭りも意外とその高揚感を利用して、女性とちょめちょめしようというイベントとして立ち上がっているものもあるでしょう。
これらは結果的に驚異的に少ない犯罪率の低さにつながっています。いわゆる性産業自体にも同じ効果はあるのですが、一般社会全体が性産業とほぼシームレスのような状態になっているのでまんべんなく若い人の性的欲求は解消されるようになっていたわけです。
姦通罪でしばっていた明治や大正の影響で一夫一妻制がずっと続いていたような印象を持っているかもしれませんが、江戸時代以前の一般社会が果たしてそうだったかは文化的な資料もほとんど残っていないのでわからないわけです。
男尊女卑的な文化はあったと思いますが、それならなおさら強い男が複数の女性をはべらせていた可能性の方が高いです。
機能的な生産性がピークを迎えるのは20代ですから、そのときに性的欲求を満たせてアルファ感が出せる男性が機能的に高いシステムやしくみを生み出せれば、社会全体の生産性は上がりますから、それらは結果的にアジアで突出したノーベル賞の多さにも現れています。
要するに、生産性が高い仕組みを作った男が女をある程度囲いやすい社会構造をつくることで、男のモチベーションをフルに引き出せるようになっているわけです。
これが遺伝的背景によるものか、それこそ文化的背景によるものかはわかりません。他の国や民族からそんなに頻繁には攻められない地政学的な影響もあるでしょう。
上記の話も単純に考えると、どの国でも成り立ちそうな話です。しかし、その違いは何らかのそういったセックスに対してしばりのないwin winの関係になるような文化的なものがあったと考えてもおかしくはありません。
その中で女性側にも満足感が得られる、今の恋愛テンプレ脳がしているたった半年でも好きになった人と結ばれるゲーム性の報酬効果があることが拍車をかけた要素があり、あとはそれが文化としてどれくらい昔からあったのかというところです。
ところが、そういう文化があったとしても、恋愛工学信者がいくら女を抱いても心はむなしくなるだけだというように、長期的に見ると、複数の女とセックスしただけでは充実感は得られないのです。
それには、男から、女からの信頼が必要なわけです。
家来から厚く信頼されている武将はそれだけ女にももてるわけです。
一方、自分のことを一番愛し、信頼してくれていた母親がなくなり、妻ともセックスレスになった50代の窓際族のおっさんは会社からも社会からも必要とされていないと感じて、結果的に自殺率の高さを牽引することになります。
これは若い頃から、恋愛テンプレの腕的な恋愛しかしていなくて、本当に信頼できる異性の友達を作ってこなかった結果とも言えます。
すべてが一つのことで説明できるといった陰謀論としてではなく、セックスに対してゆるいという文化が存在し、それがゆえに犯罪率の低さと、一部の若者の生産性の高さ、中年の自殺に結びつく糸があるんじゃないのかという話でした。
石田純一が言った言葉が、そういった文化的なものが日本にあり、何らかの効率性を発揮しているよねという話であれば、あれは意外と面白い話であり、一つ一つの問題はつながっていて、一つを壊せば別のところが壊れるようなしくみになっているのではないかということです。