人生で一番体力的にも集中力でも無理が効くのが、20代の頃です。
その頃に自分が一番考えていた生き方の規範を書いておきます。
それはたぶん、受験勉強の頃から、大学生時代の勉強法まで同じ思いで取り組んでいました。
それは、無理、無駄、無謀なものにこそ、希望はあるというものです。
人生上には上がいくらでもいますよね。自分と同じだけの時間しかなかったのになんであの人はあんなに成績が良いんだろうとか、もう今さら頑張っても追いつけないやという無力感はいろんなところで感じると思います。
正攻法では追いつけないという思いです。
一発逆転するには、全然違う方法じゃないとダメだという切迫感です。
自分は幼稚園、小学校、中学校と地方の川に挟まれた小さな地区の学校に通っていて、6クラス分の人数でずっと増減しないメンバーでほぼ10年間過ごしました。
たまたま自分の学年は歴史的に見てもかなり悪い学年で、女の子10人くらいが木刀を持って他の学校に討ち入りしたり、クラスの1/3くらいの男子が次に犯罪犯したら少年院だぞと先生に言われたりといった学年で、おそらく大学に行ったのはクラスでも数人だけだと思います。
社会的には、中の下くらいの層になるような人達が多かったでしょう。陰謀論に騙され、テレビの報道に流されといった人も多いはずです。本当、アホなんですよ。でも、人としての魅力にはあふれているわけです。その後の高校に行ったときの従順で、テンプレに従おうとする中流層の子どもたちに触れてなおさらその思いは強くなりました。
その影響で駄目じゃないのと思われるものでも、一縷の望みで一発逆転する力はあるということを証明したかったのかもしれません。
正攻法で頑張っていれば、頑張りに見合ったそれなりのところに落ち着けるなんて全く考えも希望もしませんでしたし、それは今もそうです。
だから、無謀なチャレンジをしていても、そこに安心感を感じたりしていたわけです。
すると、何が起こると思いますか?
人生の失敗ですよ。失敗。
正規のルートから外れよう、外れようとするわけですから、失敗しますよね。
その理由の一つして、人とは違うやり方をしていても、見えているのはテンプレの成功例ですから、違うやり方をして、テンプレ的な成功を目指すといういびつな構造になっているわけです。
学べたのは、無謀で無理な挑戦は失敗するということです。
じゃあ、正攻法でやるのかというと、三つ子の魂百まででそれだけは絶対にしたくないわけです。
今、どう思っているかと言うと、時間が無駄なことはしたくない、楽しい事しかしたくないと考えています。それは正攻法でもないわけです。嫌なことも含めて、みんながしていることをやるのが正攻法だからです。
結果、どうなったかというと、例えば、研究なら、世界で自分より面白い研究をしている人はいないと思い込めるようになっています。なんで、みんなあんなにつまらないことに頑張っているんだろうと感じるようになってきます。
その根本的な理由はなにか、どう考え方が変わったからそうなったのかについてクラブで説明します。
続きはクラブで