私はれんモスどころか、同性の友達もいません。同性の友達づくりも並行した方が良いですか?
同性の友達って、ある程度気が合うことで自然にできてきますよね。少なくとも、異性に対するときのように疑心暗鬼や、期待や不安みたいなものなしに相手と自然とつるむようになります。
そのときに査定されるのは、趣味とか、能力とか、社会に対するスタンスとかでの共通項がある相手かどうかになります。
男なら、一緒に狩りをする仲間であり、女なら、一緒に家事を回す仲間なわけで、流儀がある程度一緒じゃないとやりにくいわけですが、その自由度は男の方があるでしょう。要するに、似たところはあるにしても、全然違うスタンスでも共闘することはありえるんです。
しかし、長い時間で見ると、ここでも握力は試されます。
ふたりの共通項が活き続けていないと段々と疎遠になってくるわけです。
そして、年を取れば取るほど、ふたりの共通項が重なりにくくなってきます。
それを防ぐには幅広い受け皿を作っておく必要があるわけです。
幅広い受け皿というのは、浅く広い知識です。知識というのは、いろんな生き方や仕事や専門性に対する知識ですね。
要は話が合わせられて、最終的な生きる上でのスタンスで共感できるとことがあるかどうかで繋がりの強さが決まってきます。年をとると、一つ一つの選択肢を乗り越えてきた回数がそれだけ増えるので、カテゴライズの幅が広がりすぎるんですよね。つまり、価値観や立場が一致する相手の数がどんどん減っていくんです。
で、最初の質問に戻ると、友達はつくろうとしてつくれるものじゃないわけです。自然にできるものですよね?れんモスも結局、同じメカニズムで増えていきます。
つまり、必要なのは、あらゆる階層の人と繋がれる受け皿です。
それが何かというと、相手の立場や価値観に対する理解であり、受容です。
その上で、自分自身のしっかりした価値観があって、かつ、それが相手に伝わりやすい状態にあることです。
知らない職業や立場の人がいたら、興味を持ってその話を聞くようにして、自分のスタンスをオープンにしておく必要があります。そのときに友達とかは要りませんとか他人と仲良くできませんじゃ駄目なわけです。誰とでも仲良くしますよというスタンスです。
恋愛でも「あり」な人の誘いにしか乗らないという人はテンプレには一杯いますが、それが返って、自分自身のありの可能性を大幅に下げていることをわかってないんですよね。
誰に対してもオープンである姿勢が、素敵と思える人にとっても、「あり」のスタンスなんですよ。