人を識別するだけなら、番号でも良いし、そこに意味を込める必要はないわけです。
実際、明治になるまで、平民には名字がない時代が続いていました。
その意味するところは、社会や時代を変えるのは名字がある人であり、平民にはその権利も力もないという前提があったからです。
追記)ぐるちゃで指摘してもらったのですが、名字自体は昔からあったようです。
しかし、よくあるのは地域全員親戚でもないのに同じ苗字だったりとかは現代でもありますね。その意味で家というより、地域で分けられていた場合もあるようです。
また、この文脈の意味では家紋があるような家が時代を変える力がある家と見られていたともいえます。
また、すこし、違った話ですが、10年前くらいに80歳、90歳だった女性は名前がトキ、トラ、スズといったカタカナ2,3語の人が田舎では大多数でした。一方、男性は漢字の名前がほとんどです。とはいえ、一郎、二郎的な人も多いですが。
名前に強い意味があまり込められないと感じる人が田舎の平民と思われる家系の人には多かったわけですね。
また、日本人は時代によって、名前の流行も移り変わっていきます。
これもまた、日本人らしさをつくる要素になっているはずです。
さて、一人一人に名字と名前があるのは、一人一人が社会や時代を変えるかもしれないという期待があるからです。
歴史を紐解けば、どんな文明の発達にも、社会の構成の変化にも名前がつきまといます。
その中で名字は、その人がどのような家庭で育ったかを示すためにあるわけです。
一番わかりやすいのは、親子でそれぞれ新しい道を切り開いたんだなとわかることです。
つまり、産まれて名前が付けられている時点で、何かを成し遂げることが期待されているわけです。
さらに日本人は複数の漢字の組み合わせで、読み方と字面で複数の意味を名前に込めることが出来ます。欧米人のようにサム、キャシー、マイケルなどその言葉の意味合いを深くは感じ取れないわけでなく、明確に漢字には意味合いが含まれます。
逆に言うと、社会のために何かを成し遂げないといけないというプレッシャーは日本人の方が強いという見方も出来ます。それゆえ、社会のルールを守ろうとする意識が強くなっているのかもしれません。
その割に葬式ではその人が成してきたことを祭り上げるステップはほとんどありません。
むしろ、家庭の中でどうであったか、外からは見えないエピソードが披露されたりすることの方が多いです。
それは成し遂げることのボトムラインが子孫を残すとか、弟子を残すとか、そもそも葬式をして貰えるくらいの社会基盤につくることに貢献したというところにあるからかもしれません。