教会形式の結婚式をすると、牧師さんに下記のような言葉を投げかけられます。
あなたは
ここに居る●●(名前)を
病めるときも、健やかなる時も
富めるときも、貧しき時も
夫/妻として愛し、敬い、慈しむ事を
誓いますか?
自分たちはテレビや映画でこのシーンを腐るほど何回も見ているため、頭の中で記号化していて、たとえ自分の結婚式であっても、左の耳から右の耳へ、あぁ、はいはいとスルーしてしまうでしょう。
実際、相方が病気だったら、そりぁ、全力で面倒見てサポートするよね。
でも、この牧師さんの言葉の真意というか、真意があえて伝わらないようにしているくらいなんだけど、なんで、こんなこというの?ということを考えてみましょう。
つまり、相手が病気だったり、相手が貧乏になったら、見限る夫や妻がいるってことのように見えるよね?
で、それが一般的な事象なら、確かに釘を刺す必要はあるでしょう。
でも、ほとんどの夫婦が相方が病気なら面倒はみるし、貧乏になっても、次のチャンスを信じたり、一応、離婚した形にして不利益が相手にかぶらないようにしたりして、別段別れるというような展開はそれを理由にしてはあまり聞きません。
ということは、実は一番大事なのは最後の文章なのです。
相手を一生、愛し続け、尊敬し続け、慈愛の心でサポートし続けられますか?
映画でよくあるように昔は懺悔の部屋で村人の悩みや罪の告白を牧師さんは聞き続けているわけです。
その中には不倫の話もたくさんあったでしょう。夫婦の不和の話もたくさんあったはずです。
特にカトリックは別れることができませんから、その問題はかなり大きいです。
そういう相談を受けて、じゃあ、こうしましょう。こうじゃないと、夫婦になったらダメだよってメッセージを結婚式の時に込めたいはずです。
それが、これなんです。
結婚相手を一生、愛し続け、尊敬し続け、慈愛の心でサポートし続けるだけの覚悟はありますか?浮気したり、浮気したくなる衝動もあるし、決してずっと仲が良い状態が続くわけではないですよ。離ればなれになる時もあるけど、一生ベストパートナーとしてやっていけますか?
そう問うているんです。
もちろん、それでも、やっぱり、ダメだったねということもあります。
だから、あえてシンプルにしているととも考えることは出来ます。
でも、いずれにしろ、それが簡単に成し遂げられることではないことを知っているはずの牧師さんがこの言葉をいう意味は空恐ろしいものがあります。