
我々は知の塊がないと思考できません。
広い意味での知の塊とは日本語システムという知の塊です。
そこに価値観や深堀された情報が詰まって、一つのジャンルや分野という知の塊が出来上がります。
パチンコの話、株取引の話、特定の占いの話、専門科学分野の話など、日本語を知っていても、話の内容についていけなかったり、意味がわからない知の塊は沢山あります。
一方で、受験のための数学、国語、英語、社会、理科などの知の塊は誰もがだいたい想像できて、いくら詳しくなったところで塾の先生にしかなれません。どの学校がどんな受験問題を出すかくらいしか議論の余地がなくなってくるのが特徴です。
我々は学校に行っている間、このような将来性のない知の塊に取り組みます。
勉強が無駄だ、社会で役立たないという屁理屈はこれが原因でしょう。
学校の勉強が将来性のない知の塊なのは、それが課題にどう取り組むかの練習台だからです。
それがどういう成果を出したかが成績に現れます。取り組み方が下手くそなら、長時間勉強なのに成績低迷となるでしょう。知の塊をいかに効率よく処理するか、その練習なわけです。
昔、じっちゃまがアメリカの知識階級では欧米の古典文学に精通していないと人とみなされないみたいな話をしていたことがあります。
日本でも古来の印刷文化がない時代は写経することで、日本の古典文学への造詣を深め、教養として扱われていました。
ある種、必須の知の塊が昔はあったわけです。
でも、これらはそもそも知の塊が少なかった時代の習慣に過ぎません。
現代は数多の知の塊があり、全てに精通することは不可能です。
不可能ゆえに外部情報ボックスとして昔は図書館、今はAIがあるわけです。
その時、図書館のどこに何の本があるのかを知っているのが、教養となります。
さらに概略だけなら、だいたいわかるが深い教養ということです。
人が一度に取り組める3セットはある意味、どの知の塊を選ぶかということでもあります。
知の塊の建築構造は似ていることが多く、他に応用も効きやすいので構造を支えているポイントから理解していくことで、その理解度は早く深まります。
その訓練が学校の勉強でもあるわけです。
ということは、全体をまずはレビューして、骨組みをとらえ、どれをどうまとめていけばいいかを考えることが勉強なわけです。