テンプレ的な生き方って幸せだと思います。因みに、私は小1から社会不適合者です。
人は目に見えているものが「普通」だったり、「あるべき姿」だと捉える習性があるわけです。テンプレートがまさにそれにあたります。
でも、たとえば、結婚生活って、親の実例以外はなかなか見えませんよね。
代わりにドラマや映画や漫画で表現されるので、それを参考にテンプレートが頭の中で作られるのですが、実際に結婚してみたら、そんなものとは似ても似つかないし、何ならどこの家庭も千差万別で全く似ていないんですよ。
つまり、結婚生活にテンプレートはないという話をしています。
世の中でテンプレ的に成功しているとか、羨ましいという生き方をしている人は、「普通」ではないですよね?遺産だったり、その人がその世代で成功していたりですが、なにか他の人と違うことをしたからその成功があるわけです。
今回の質問者さんはその下のレベルの「普通」の生活に憧れているわけです。
「普通」のことすらできないから、「普通」の生活に憧れているという構図です。
でも、逆に言うと、「普通」じゃない生活をする権利を最初から得ているとも言えます。
「普通」であるべき同調圧力からも開放されており、成功の定義は自分自身に任されているとも言えます。
その人と違った生き方が「普通」よりも、贅沢だったり、余裕があったり、楽しめる局面が多い生き方だったら、成功していると「普通」の人からみなされるのですが、そんな才能はないし、社会にもついていくのが精一杯だと嘆いているわけです。
さて、それでも、キーワードは「創造性」になります。たとえば、自分のような引きこもりでも楽しめる何かがあるはずです。その楽しみ方は「普通」の人と違っていたりすることはあるでしょう。もしかしたら、自分の処理能力が低めで「普通」には楽しめていないかもしれません。しかし、世の中には、同じようにしか楽しめてない人もいるはずです。「普通」に届かない楽しみ方しかできない人は他にも世の中には一杯いるはずなんです。
それらをつなげたり、ルールを設定したりすることはまさに「創造性」です。そして、そのサービスは「普通」の人は興味を持たないでしょう。
要するに自分に合った、自分にしか楽しめないものへの接し方があるわけですが、それを共有できる相手もまた存在しうるということを言っています。
目に見えているものがテンプレートであり、それが「普通」と感じるなら、まずはその目に見えている風景や、相手を自分に合った人たちにしていきましょうということです。
それは何も自分と同じ境遇の人と言うだけでなく、そういう自分を受け入れてくれる人たちでもいいし、また、自分自身がもっとひどい状況の人を受け入れてもいいわけです。
取り組んだことの殆どは失敗するでしょう。しかし、「創造性」はその失敗の上にしか成り立ちませんから気にしなくてよいわけです。