一方で教授職になることで偉くなるという側面があります。偉い人という扱いを受けられるということです。これはまさにオスの格問題に直結しているわけです。
教授にはある種の権威と権力が与えられるので、それを利用し、酔いしれたいとまではいきませんが、ある種のルサンチマンを克服するチャンスでもあるわけです。
実際、日本ではそのタイプの教授が医学部を中心にそれなりにいます。白い巨塔だってその側面が強かったわけです。偉くなることそのものが目的と化してしまうパターンです。
これは、日本のサラリーマン社長でも同じ問題を抱えています。業績を上げないといけないけど、ドラスティックな改変はよほどの説得力がないと受け入れてもらえない。
かといって、一本筋の通った運営方針がないと下がついてこない。
自分の祖父はある私立大学の教授をしていて、そこは10年も経たずに近くの旧帝大教授になって、そこで10年以上勤めあげたわけです。退官したあとは中堅の病院の病院長として、病院経営に取り組み、それなりに成果を上げていました。
で、それも辞めたあと、どうなったかというと、最初に教授をした私立大学のときの部下たちがそれこそ生田会のようなものを立ち上げて、辞めたあと30年以上毎年、会を開き、海外に一緒に旅行に行っていました。
祖父は普段は無口で厳格な人でした。自分にも他人にも厳しいようなムスッとしたひとだったので、なんでそんなに慕われているんだと思い、死ぬ前に聞いたことがあります。
でも、本人に聞くと、あまりできない部下たちだったので、論文も含めて丁寧に世話をしてあげていたというだけのようでした。
これくらい部下に慕われれば幸せなんでしょうか?
また、目指すべきなのでしょうか?
自分が働いたアメリカのボスもまた30年間で誰一人部下が悪口を言わない人でした。大きい有名なラボなら生活費は奨学金持ち込みで50人、60人雇うことが多い中、自分が面倒を見切れるのは10数人までだと、全員の給与が彼が払うことで15人程度に抑えていました。
でも、この2つの状況であっても、幸せなのは実はその二人の元で働けた部下なんですよね。あんな人の下で働けたことが誇りであり、最高の体験だったと感じるわけです。
その意味で、人生の出来高を最高潮に上げるサービスを提供していたとも言えます。
で、幸せかどうかというと、それだけ部下から信頼されていたという意味で幸せとも言えるでしょう。
ただ反対に自分が部下のことをどれだけ信頼できていたかが肝となるわけです。その点に関してもin personなコミュニケーションが取れていたので、そこでも幸せと言えます。ただ指導者としての孤独感があり、部下をひいきしたり、入ってくる人を選ぶこともできないので、その点がやや最高潮の幸せとは行かないところかもしれません。