それと死ぬ時期はイメージによって変えられるものでしょうか。
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死とは何かというと、この世での活動がゼロになるという事です。
何も情報が発信されない状態になるという事です。
自分が死ねば、このブログの更新も止まります。
書籍の9割くらいは20年ももたずに消えていきます。特に著者が亡くなった後は読まれ続けるのは一部の有名な小説家くらいでしょう。
科学的な論文もそうです。20年も経つと技術の進歩でそれまでの常識がくつがえることはままあるし、もはや引用されることもほとんどなくなります。
時間軸を伸ばしてみれば、我々人間の個人の活動は、ポッと点いてはすぐに消える小さな灯火みたいなものなんですよね。
私たちは忘れられない映画だったり、曲があったりします。
人と人との関係においても、そういう思い出というのがあります。
でも、その映画や曲だって、結局、別の人との思い出だったり、その時代全体のイメージとともに記憶されているはずです。
そして、その時代のイメージって、結局、人と人とのつながりで支えられているはずです。
自分の母が一度だけ「何でも買っていいよ」と言ってくれたことがあります。
いくらこのおもちゃが欲しいと言っても、絶対に買ってくれなかったが母が一度だけおもちゃ屋にいって「好きなだけ何でも買っていいよ」と言ってくれたことがあります。
それは小学生のときに全身麻酔で蓄膿の手術をうけるときでした。
当時はインフォームドコンセントもたいしてされていない時代でしたが、ほとんどないにしろ、死ぬこともありえるわけです。子供ですから、麻酔のコントロールは大人とは少々異なります。
好きなだけおもちゃを買いました。といっても、買い慣れてないから、無駄な買い物もいっぱいしてほとんど遊ばずに積んどくだけのものもたくさんありましたけどね。
母の愛情は十分に感じていたけど、あのときに感じた想いというのは忘れられないわけです。
れんモスは年齢差など関係なく、互いに母であり、父であり、兄であり、姉であり、弟であり、妹であり、息子であり、娘であり、夫であり、妻であり、恋人のような、それでいてそのどれとも違う関係です。
れんモスベイビーが十分に育ったとき、
全チャンネルでつながっているようなものであり、それに結婚してからの歴史を加えれば、忘れられない体験はたくさん出来ます。
キスしてセックスしたなんて記憶は快楽が強すぎて、記憶には残りません。
まして、ほとんどの相手ももう手の届かないところにいて、心と心がつながっていないわけです。それは永遠の良い思い出にはなり得ないわけです。
死を迎えるとき、今でもつながっているれんモスとの記憶たちや関係性たちを家族の愛情とともに胸一杯に抱えながら眠りにつけるとしたら、どれだけ幸せでしょうか。
少なくとも、そのひとたちが生きている限り、自分はその人たちの心の中で生き続けられるんです。
さて、死ぬ時期についてクラブの方で書いてみたいと思います。
続きはクラブで