春になったらが終わりました。
余命3ヵ月の父と、結婚まで3ヵ月の娘の話で、その3ヵ月後が2024年3月末とリアルタイムで物語は進み、桜が咲くこの時期にドラマは終わりを迎えます。桜のシーンだけは別の人が同じ衣装を着て後ろから撮影したものを差し込んでいましたが。
ストーリーはその設定で予想される範囲の中で進むわけですが、コンテンツの肝は、じゃあ、それをどう演技するかというところで、本来はコメディアンの木梨憲武がどれだけ演技できるかというところもありましたが、むしろ、木梨でないとこの役は出来なかったという出来栄えで、特に中盤が見応えがありました。
さて、ドラマを見て、そうだったかと気付いたのがタイトルのことです。
子供ができると、みんな写真を撮りますが、ほぼほぼ100%第一子で毎日のように撮っていた写真も、第二子からはちょろっととしか撮らなくなります。第三子に至ってはほとんど写真がないくらいまで減ってしまいます。
親目線で見ると、子供が出来た感激はどんどん減っていくもんだな程度に考えるわけですが、子供が親になったときのことまでは想像がいかないわけです。
親は子どもと同時に年を取っていきます。
子供がおとなになったとき、親は老人一歩手前で、子供がおじさんおばさんになったとき、親はかなりの老人です。
子供は親が死ぬときまで、親である親の姿しか見たことがない状態で親の死を迎えます。
でも、そんな親だって、親になりたてのとき、自分と同じくらい未来に確信も持てず、不安を持っている時期があったはずで、だからこそ明るい未来の可能性をほんのりと信じられていた若かりし頃があったわけです。
もし、そんな親の姿を見ることができれば、今の自分は決して未熟でもないし、年相応で、不安もあるけど、希望も期待も持てる状態であり、そこから今の親くらいまでの状態には持っていけるはずだという安心感も持てるはずなんです。と同時に親に対する感謝の気持も強くなるし、子供をこれから育てていく覚悟もより強く持てるようになります。
写真や話でしか聞けなかった親の若かりし頃の姿を動画で見られれば、そんな効果が得られるわけです。
だから、子供に向けたそのスマホのカメラを互いに向けて動画を撮っておきましょう。